I氏についての備忘録

彼は変人である。

彼とは大学の研究室で出会った。髪が長く、髭の濃い、鼻毛の飛び出た、やや長躯の、カマキリを連想する容姿の穏やかな話し方をする男で、失礼ながら世に馴染みにくい類の人物かと初対面で思ったのを今でも覚えている。出会った時は黒髪だったと記憶しているが、次に会った時には、髪を青だか緑だかに染めていた。しかし、奇抜な容姿はさして驚くべきことではない、真に只者ではないと最初に印象付けられたのは四足走行だろうか。

妙にライオンに憧れている男であった。ライオンの何が魅力なのか尋ねた覚えはあるが、解答は定かでない。驚くべき回答であれば記憶しているはずなので、思いの外普遍的な何かだったのだろう。兎にも角にも、彼はライオンになりたがっていたと記憶している、そしてそれが四足走行のモチベーションの一部だったのだろう。京都大学同志社大学の中間近く、鴨川デルタと呼ばれる鳶に襲われる以外は居心地の良い一帯があるが、そこが彼の四足走行の練習場所であった。真夜中に長躯の青髪の人間が四足で河原を走行している様を想像してもらいたい、3ヶ月以内に忘れないと死ぬ類の妖怪である。

彼自身は特定の思想を持っていないが、思想を持っている人間が好きなようだ。例えば、学生時代は共産主義者を楽しんでいた。シーラカンスのような赤が微かに生き残っている大学であったが、中核派以外で民青同盟に加入していたのは彼ぐらいしか知らない。つい先日も、カトリックに入信するなどと言いだした際には、真面目な信者に失礼のないようにだけはしろよと諭したものだ。入信はしなかったようだが、祝福を受けたと満足げであった。

彼は愛に飢えていた、あるいは飢えている。その原因として、高齢出産でたいそう可愛がられたという噂もあれば、愛情を注がれなかったという噂もあるが、何はともあれ皆が愛に飢えていると認識していた。彼の奇行は、親の関心を求める子供のそれだという声すらあった。彼にとっては苦痛かもしれないが、私にとっては幸いなことに、その強い渇望が数多くの切実な奇行を生み出してくれたものである。

思想でいえば、ジェンダー論に関心が強かった。研究室の机の上には、フェミニズムの論文や書籍が積まれていたし、研究室見学に来た学生にその話をしていたものだ、情報学の研究室であったが。上野千鶴子の公演を聴きに、夜行バスで東京まで向かったという出来事があったと記憶している。どちらかというと彼は愛が翻ってミソジニーを拗らせていた。男性が女装を認められないのは合理性のない風習だと主張し女装してみるなどしていたが、ある日脈絡もなく研究室にミニスカを履いてきた際には、誰もが凍りついたものである、丁寧にムダ毛処理された滑らかな御足だった。

彼は、結婚こそが人生の目標だと主張していた。学生時代にSNSで知り合った女性が早々に結婚したいと発言しているので求婚しに行くなどの奇行を見せてくれたものだ。「結婚は方法であって目的足り得ないのではないか、その後はどうするのか」と尋ねたところ、満足して全てを捨て去って逃げ出すかもしれないとのことであった。

最近宗旨替えして、愛とは性行為であるという認識になったようだ。もっとも、風俗店に行ってみたが、いくらのコースという札を持たされ、待合室で待っていると、自身のこの場における価値はこの金額なのかという考えが湧いてきて虚しくなったなどという独白があったので、そこまで割り切れてもいない気がするが。とはいえ、ナンパ師の動画で学習しながらマッチングアプリを頑張っている。先日も、マッチングアプリで知り合った女性とカラオケボックスで致した後、連絡を絶ったが、冷静になると警察に行かれるのが怖いなど語られたものだ。

女性にご執心かと思いきや、彼はバイセクシャルらしい。私にはそっちの気はないつもりだが、なぜか自慢の陰茎をネットに披露しているアカウントを紹介されたこともある。何かの機会があって、彼と蒙古タンメンを食べに行った際に、同性愛者向けの風俗店に行って、お尻で遊ばれてきたという話を聞きかされたものである、店よりもカップ麺の方が美味しく感じたのは偶然だろうか。

学生時代の本職である学問においても、独特な視点を常に持ち、あちこち掘り返しては楽しんでいた。密かに感心していたものである。「奇行が許されるのは天才だけだ、俺は違った、真人間になる」とのことで、アカデミックの道には進まず、社会に迎合しようと新たなチャレンジをしている、奇行は相変わらずであるが。3ヶ月程度で適応障害を起こすかと思っていたが今のところ順調であり、予想が外れて一安心である。この調子で頑張っていただきたい。

こんなことを色々思い出すのである、唐突に一発芸を披露しますと言って空気を凍らせた飲み会、シェアハウスで唐突に開催された振られて頭のおかしくなった女性の乱交パーティー一人カラオケへの見知らぬ乱入者との朝までデュエット、老舗高級旅館に骨折して遅刻してきた姿...他にも山ほどエピソードがある、あったはずだ。どれも興味深い話だと思いつつも、記憶から薄れ始めている部分を感じ勿体無いと感じたので、この備忘録をしたためている。もっとも、勿体無いと思うまでもなく、彼は今後も己の道を進み続け、新しい強烈な話を提供し続けてくれることだろう。鮮烈な生き様を今後も期待しつつ応援したいものである。